親に連れてこられた少年3

2007年05月30日

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    〜後編〜
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〜突然の家庭内暴力・・・その裏に潜むもの〜
○「何とか学歴を・・・」と考えてしまう親たち


 二十代の終わり頃、高校3年生の少年をアパートに預かった頃、私は、まだ「無意識」の存在に気づけずにいました。
 少年とともに過ごすことになっても私の生活のペースが変わることはありません。小学校の体育館や公園で集まった者たちに空手を教え、自らの稽古もし、支部の運営に絡む雑務をこなします。高校3年生の少年も私たちと一緒に稽古に汗を流し、雑務も手伝うようになっていました。また彼は、学校へも通っていました。もともと大学へ進学するつもりでいたので並行して受験勉強をするはずでしたが実際には、ほとんどせずに時間があれば稽古をし空手のことを考えていたようです。
 彼にとっても家庭内で暴れてしまったこと、後輩に殴られたこと、それらの経験は忘れ去ってしまいたいことのようで、そうするためにも空手に、より一層夢中になっているようにも思えました。
 高校3年生、中学3年生の子を持つ親に会って話すと、よく感じることがありました。受験をして高校、あるいは大学に合格することが人生のファースト・プライオリティのように考えていると。まぁ、時期的なこともあります。子供の将来を考えて、良いといわれている学校に入れるよう、できる限りのことをしたい、という気持ちは理解できないわけではありません。
 でも、その子の長い人生を考える上でそこまで思い詰めるほど学歴は大切なものなのでしょうか。
 私は子供たちが学校へ通うことは当然、必要だと思っています。集団生活を体験すること、学問を学ぶことは言うまでもなく奨励すべきことです。各々の家庭において事情は異なるでしょうが、できることなら高校にも大学にも通って学べれば、それに越したことはないと思っています。
それでも、「何とか学歴を・・・」とだけ考えることには賛成しかねます。
 進学は、まるで肩書きを得るように、学歴だけを求めてするものではないでしょう。大学は、目的を持っていく学びの場であり、ただ履歴書に記すための武器を求めていく場所ではないのです。そんなことは、おそらく多くの人が頭の中では理解していることでしょう。にもかかわらず、「自分の息子は大学くらい出ておかないと」と言ってしまう親の心のあり方には実は問題があるのです。子を育てることとは、教育とは、学歴を与えてやることではないのです。


○彼が家の中で暴れてしまった本当の理由

 彼と一緒に生活しながら一つ疑問に思い続けていることがありました。
 こんなに正義感の強い彼が、後輩に殴られたことが、いくらショックであったとはいえ、それを契機に家庭内で暴れるようになるのだろうか、ということです。おそらくは、それだけが理由ではないだろう、と私は思いました。
 彼の場合、経済的なことも含めて何の不自由なく生活していました。両親は実直な彼に大きな期待を抱いていたのでしょう。当然のことです、親は子供により良い生活を生涯、送って欲しいと望みます。ただ、それが・・・子供を無意識的に孤独にすることもあるのです。
 親は、高校生に大学に進学してもらいたいと望んでいました。しかし実際には彼は、ほとんど、いや皆無と言っていいほど受験勉強などせず日々を過ごしていました。それは私とともに過ごすようになってからも、それ以前も変わりはなかったようです。結局は、大学へも進みませんでした。浪人生になってからも私と一緒に空手の稽古をしていました。そんな中で彼は確実に強くなっていました。
 私は思いました。彼は、寂しかったのだろうな、と。
 家の中で暴れたのは、自らが応援団長をしているにもかかわらず後輩に殴られたショックが大きかったからだけではないでしょう。確かに、それが引き金になったのかもしれません。でも、それが原因のすべてではないと私は思いました。彼は親から投影された期待の大きさに耐えられない状態になっていたのです。ただ彼も、それが理由であるとは認めたくはなかったのでしょう。だからこそ葛藤があったのだ、と私は思いました。自分は応援団長をやっていたにもかかわらず、格好の悪いことに後輩から痛めつけられた。その自分の受けた痛みも本当は親に理解してもらいたい心を包んで欲しかったはずです。でも、とても、そんなことはできない。なにしろ親は、そんなことよりも、自分の進学に期待をかけていたのですから。その心の苦悶を誰かに理解してもらいたい・・・でも、それができなかったのです。術もわからず、決して言葉巧みでもなかったのです。学校の先生に電話をしても上手く伝えることもできなかったのです。
 当たり前のことですが殴られれば痛いのです。格闘技においても人生においても同じことでしょう。そのことを身をもって教えてくれるのが空手の組み手です。道場で仲間たちと必死で殴りあいます。痛いし、苦しい、でも互いに痛みを共有する中で、ともに汗を流す中で言葉が無くともわかり合えることがあります。そんな痛くて苦しい稽古を続ける中で彼は明るくなっていきました。そして自分の気持ちを包み隠さず仲間に打ち明けることができるようにもなっていました。話し方も随分と上手になっていきます。明るさを取り戻した彼の姿を見ていて私は凄く喜ばしい気持ちになりなした。
 当時、所属していた団体の全国大会にも一緒に出場しました。必死に戦いましたが勝てずに悔しい思いもしました。でも良い経験です。悔しさを忘れずに、
「次こそは絶対に」
と思い、長野に戻って再び稽古をします。そんな中で彼は徐々に自分の気持ちを包み隠さずに話し始めるようになりました。仲間に本心を打ち明けることもできるようになりました。これは、とてつもなく重要なことなのです。
                          終わり




posted by dhyana at 11:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 青少年更生体験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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